人の受精卵の遺伝子が改変されたことについて

先月発表された論文に注目しています。

 

この論文です。

CRISPR/Cas9-mediated gene editing in human tripronuclear zygotes

(CRISP/Cas9によるヒト3前核受精卵遺伝子の改変)

 著者:
Puping Liang, Yanwen Xu, Xiya Zhang, Chenhui Ding, Rui Huang, Zhen Zhang, Jie Lv, Xiaowei Xie, Yuxi Chen, Yujing Li, Ying Sun, Yaofu Bai, Zhou Songyang, Wenbin Ma, Canquan Zhou, Junjiu Huang

Protein & Cell
May 2015, Volume 6, Issue 5, pp 363-372

 

このタイトルからわかるように、人の受精卵の遺伝子を改変した研究を表したものになります。

なぜ、この論文に注目しているか。

それは、人の受精卵の遺伝子改変が世界で初めて報告された論文だからです。

 

世界で初めて人の受精卵の遺伝子の改変が報告された。

例えば日本。厚生省労働省は「遺伝子治療臨床研究に関する指針」の第一章で明確に「生殖細胞等の遺伝的改変の禁止」を記しています。

 

第 六 生殖細胞等の遺伝的改変の禁止

 人の生殖細胞又は胚(一の細胞又は細胞群であって、そのまま人又は動物の胎内において発生の過程を経ることにより一の個体に成長する可能性のあるもののうち、胎盤の形成を開始する前のものをいう。以下同じ。)の遺伝的改変を目的とした遺伝子治療臨床研究及び人の生殖細胞又は胚の遺伝的改変をもたらすおそれのある遺伝子治療臨床研究は、行ってはならない。*1

 

「臨床研究」がどこまでの範囲のことを指すのかということもありますが、同じことを日本でやったら大きな問題になりそうです。

 

朝日新聞よるとそれは「世界の主な国」でも同じらしく、受精卵の遺伝子改変は禁止されているようです。*2*3

 

今回この論文を提出した中国ではどうなのか、その明確な記述は現在のところ発見できていません。しかし、今回こういった研究が世に出てきたことで、そういう規制がないまたはゆるいのかもしれません。ここはもう少し調べる必要はあると思いますので保留にしておきます。

 

ただ、研究としてヒトの生殖細胞に対する遺伝子改変が行われたという公式の報告は世界で初めてとなり、禁止されている国さえあるので大きく取り上げられているようです。

 

次はヒト生殖細胞で、という研究の流れ。

今回使われたCRISPR/Cas9というゲノム編集技術は新しいもので2013年頃にこの論文で発表されています。(もちろん、いきなりこの論文で出てきた技術ではなく、元になる研究はたくさんあります。)

RNA-Guided Human Genome Engineering via Cas9

 

詳しくはこちらで解説されています。

CRISPR/Casシステムを用いたゲノム編集 : 一人抄読会

 

ゲノム編集技術とはごく簡単に言うと、DNAの特定の部位を入れ替えられる技術、です。それがこのCRISPR/Cas9が現れたことによって汎用的に、簡単に行えるようになってきたということになります。

 

このCRISPR/Cas9を発表した論文はgoogle scholarで検索したところ現在1225件の引用がなされており、かなり普及した方法だと言えます。そして、今回の問題の論文では人の体細胞、人の多能性幹細胞、マウスの受精卵に対しても研究がなされていく過程が紹介されていて、この流れから行くと次は人の受精卵で研究だ、というふうにも読めてきます。

 

その後、倫理的な問題に関する記述が続き、その対策としていくつかのことをしています。

 

倫理的問題をどのように解決しようとしたか

この論文は受精卵の遺伝子を改変することに対して意識的であり、倫理的な問題を解決するために以下のようなことを行ったことが書かれています。

育たない受精卵を使った

一つ目は、育たない受精卵を使ったことです。論文タイトルにもありますが、 3前核受精卵を用いています。この受精卵は一つの卵子に対して、二つの精子が受精しており、体内に戻しても成長できません。正常な受精卵では倫理的な問題があるので、正常でない3前核受精卵を使ったということが記述されています。

ちなみにこの受精卵はIVFという体外受精治療の過程で作成されたもので、廃棄予定のものを研究利用したとのこと。

 

ヘルシンキ宣言に準拠している

人間を対象とする医学研究の倫理原則を示したヘルシンキ宣言に則って研究されているということが明記されています。倫理委員会への研究計画の提出や、受精卵の提供者へのリスク説明など数十の項目があり、それらを全てクリアしているということになります。

 

国の法律に準拠している

具体的にどのような法律なのかはわかりませんが、中国では問題にならないような手続きが行われたと考えられます。

 

大学病院の倫理委員会に承認されている

研究室が中山大学の附属病院にあるのですが、こちらも大丈夫なようです。

 

受精卵提供者へのインフォームドコンセントをしている

受精卵は病院で体外受精をした際に異常のあったものを患者から提供してもらっています。提供者にはインフォームドコンセントをしっかり行っているとのことです。提供者への情報提供&研究への理解も問題ないということでしょう。

 

著名学術誌では倫理的問題があるとして掲載を拒否された。

NatureとScienceという有名学術誌への投稿が行われましたが、倫理的な問題があるとして、掲載を拒否されました。両誌はインパクトがあり、目を引くような論文を載せる時がありますが、さすがに倫理的な問題で注目されるような論文の掲載には踏み切らなかったようです。もし掲載していたとしたら、この権威ある学術誌の将来も左右する大事件となっていたのではないかと思います。学術誌に載る=学術誌がその成果を認める、という意味がありますから、インパクトファクター(学術誌の偏差値のようなもの)が高い学術誌が掲載するとその研究が一気に加速する恐れがあります。両誌からは、今回、人の受精卵の遺伝子改変に対して懐疑的な記事が出されていることからも、今はそのときでないという見解を暗に示しているのだと思います。逆に著名な学術誌に掲載できないのであれば、研究者としての実績にもならないので、類似した研究を失速させる効果もあると思います。その効果を狙ったものかもしれません。

また、研究結果としてもネガティブなものでしたので、掲載する価値がないという判断がされたのかもしれません。この論文では、とある遺伝子が原因で発生する疾病にたいしてゲノム編集の技術をほどこしました。結果としては、手法が未熟でDNAの想定外の部分に多くの改変が入ってしまって、もっと正確な手法が必要であること、CRISPR/Cas9の手法の精度をかなり上げる必要があることが示されています。研究の成果としてはいまひとつ足りていない部分があると思います。これをポジティブな結果にしたいのであれば、このゲノム編集の技術の精度を高めるような結果を示さなければならないでしょう。

結局はProtein & Cellというマイナーな中国の学術誌で発表されました。

 

ヘルシンキ宣言に則った情報の開示?

ただ、このようなネガティブな結果の論文をなぜ世に出したのでしょう。その理由の一つにヘルシンキ宣言があったのではないでしょうか。

36. すべての研究者、著者、スポンサー、編集者および発行者は、研究結果の刊行と普及に倫理的責務を負っている。研究者は、人間を対象とする研究の結果を一般的に公表する義務を有し報告書の完全性と正確性に説明責任を負う。すべての当事者は、倫理的報告に関する容認されたガイドラインを遵守すべきである。否定的結果および結論に達しない結果も肯定的結果と同様に、刊行または他の方法で公表されなければならない。資金源、組織との関わりおよび利益相反が、刊行物の中には明示されなければならない。この宣言の原則に反する研究報告は、刊行のために受理されるべきではない。*4

 

否定的でも何でもヘルシンキ宣言に準拠するには、その結果を公表されなければならないと記されています。

また、この研究が臨床研究的な文脈で行われたのか、基礎研究的な文脈で行われたのかにもよってくると思います。以下の記事を読み、臨床研究と基礎研究の違いに「なるほど」と思いました。「臨床研究ではネガティブでも結果報告する」というのがお約束のようです。

nosumi.exblog.jp

 

巻き起こしている議論

安易な受精卵の遺伝子改変は危険であるというのが基本姿勢です。その大きな理由の一つに、遺伝子改変された受精卵から生まれた人間の持つ遺伝子は、後世まで延々と影響を与え続けるということがあげられます。

現在遺伝子治療としてほどこされているものは、人としての個体内で完結するものだけですので、悪い影響が出ても一人の患者内だけで収まるものです。対象の細胞の種類も数種類がいいところだと思います。なのでその影響もまだ確かめやすく、推測もしやすいです。しかし、受精卵の遺伝子改変は一つの細胞が分裂していくため、そこから生まれた人間の生殖細胞もその改変の影響を受けており、生殖を続ける限りその改変が受け継がれていく可能性があります。

また、多細胞生物の発生は一つの細胞から多様な細胞に分化していく訳ですから、一つの遺伝子のみを改変しただけだとしても、その遺伝子の使われ方(もっと言えばその改変されたDNAの配列の使われ方)が同じ生物内でも細胞の種類により異なり、影響を確認するだけで膨大な研究が必要になります。倫理的な問題をクリアできても、そういった形で人を生み出すにはあまりにも研究が進んでないと思います。これが二つ目の理由です。

ただ、そこに技術が追いついてきています。CRISPR/Cas9が普及したことにより、今回の論文のようなことが容易に行われるようになってきているというのが顕在化したのではないでしょうか。それが論文という形で現れたわけです。CRISPR/Cas9は人の生殖細胞に対して行うにはまだまだ未熟な技術であるということが今回の論文では示されました。ですが、技術的にその壁を乗り越えられる日がくるだろうという展望が現実的な考え方だと思います。後はそれをどう扱うかという部分を決めなければなりません。

一部研究機関や大学、学会が、ヒトの生殖細胞の遺伝子改変に対する見解を発表しています。

これに関してはこちらのブログでうまくまとまっています。(この論文が何を言っているのかももっと細かく書かれています。)

shimasho.blog.jp

 

実はこの論文を載せたProtein & Cellという学術誌も

Urgency to rein in the gene-editing technology

(ゲノム編集技術を抑制する緊急性)

 というタイトルの記事を掲載後に出しています。論文掲載の意図はこういったインパクトの大きい研究の出現を早く伝えて、対応をできるだけ早く講じる所にあると述べています。残念ながら日本では見解を述べている機関を発見することができていませんが、Nature、Scienceのような有名学術誌や、NIHオックスフォード大学ISSCRSDBのような海外の影響力の大きい機関が立場を表明しており、Protein & Cellの意図通りになっているのではないでしょうか。ポジティブに受け取るか、ネガティブに受け取るかはそれぞれのようですが、議論が進むことは好ましいことです。議論をした上で、どこまでを可能とし、どこからを不可とするのか、または全面的に禁止するのか、可能な範囲で研究を行うことを許可するのであれば、どのような手続きをとるべきなのか、何が必要なのか、どう報告すべきなのか。こういったものが決まるまでは研究を進めるべきではないでしょう。例外的に出てきてしまった今回の論文の影響は、その結果や掲載した学術誌いかんに関わらずとてつもなく大きいと思います。

 

参考

日本語

ヒト受精卵に世界初の遺伝子操作-中国チーム、国際的な物議 - WSJ

ヒト受精卵の遺伝子を「編集」、中国研究に世界の科学者が異議 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

ヒト胚ゲノム編集論文の意味するところ - researchmap

ヒト受精卵改変技術、科学界大揺れ 倫理議論追いつかず:朝日新聞デジタル

 

Nature

Chinese scientists genetically modify human embryos : Nature News & Comment

Scientists sound alarm over DNA editing of human embryos : Nature News & Comment

Don’t edit the human germ line : Nature News & Comment

Science

Journal responds to controversy over embryo gene-editing paper | Science/AAAS | News

Chinese paper on embryo engineering splits scientific community | Science/AAAS | News

Don’t edit embryos, researchers warn | Science/AAAS | News

MIT

Chinese Researchers Use Genome Editing on Human Embryos | MIT Technology Review